「女優」と聞いた途端、私の中に浮かび上がるのは「オードリー・ヘプバーン」です。
「女優」としてどうか?何ていうことは彼女の前では何の意味もありません。
映画の中でどんな女性を演じていようが、悲しんでいようが、怒っていようが、苦しんでいてさえも、彼女のそのときの映像の向こうにあの「ローマの休日」1953で見せたあの素晴らしい魅惑する目が輝いているのです。
彼女はどの映画でもそこにいてくれるだけで見る者をその映画の虜にする魅力を秘めています。
いえ、秘めているというよりその魅力を発散しているという方が正しいでしょう。
私は始めて「ローマの休日」を見たときから彼女の全部の表情の虜になってしまいました。
美しくて、可愛くて、無邪気で、優しくて・・・天使のようで、妖精のようで、なよやかに細く、高く、清らかで、女性がこうありたいと思うすべてを兼ね備えていましたもの。
神の賜物をこんなにいっぱい貰って生きるってどんなでしょう?
憧れる以外にどうできるというのでしょう。
まさしくそれが「スター」の条件でしょう?
すべての映画の中で彼女の持つ何かが必ずスター・星のように輝いていました。
「ローマの休日」には彼女のすべてが凝縮されていましたが、かなり年齢がいってからの「ロビンとマリアン」1976でさえ、彼女の持つ可愛らしさは隠しようもなく現れ出でて、スクリーンの彼女は見る者を魅惑してくれました。
あぁ、なんて彼女は可愛いのでしょう!
尼僧姿のオードリー「尼僧物語」1959年は彼女の清純さに魅せられた監督がその清純さをスクリーンに固定したくて撮ったのではないかと思ってしまいますし、リッツで黒のレースの覆面をして現れたオードリー「おしゃれ泥棒」1966は彼女のチャーミングさに惑わされた監督がそれを見せたくて撮ったのではないかと思ってしまうといったふうです。
「パリの恋人」1957年の黒タイツで踊るオードリーはスレンダーなその姿が生み出す躍動感の美を体中で見せてくれて、楽しませてくれましたしね。
「暗くなるまで待って」1967年は盲目の彼女の健闘がいじらしくて、可憐で、どんなにはらはら応援しながら息を呑んだことか!
オードリーだったからあんなにもいじらしかったんですよ。
彼女の映画にあっては物語は付け足しで、どんな彼女を魅せてもらえるかということだけで楽しかったという気がしています。
「マイ・フェア・レディ」1964年を見に行くのではなくてマイ・フェア・レディのオードリーを見に行ったのです。
本当にフェア・レディ!なオードリー!
彼女みたいな女優はもう出ないかもしれませんね?
モット美人で、モットはかなくて、もっと魅力的な、モット上手な女優は居るかもしれませんが、すべて持っているものの上になんともいえない上品さをヴェールのようにまとって素晴らしい最高の笑顔を見せてくれるのは彼女だけでしょう。