監督  ルキノ・ヴィスコンティ
出演  バート・ランカスター、アラン・ドロン、
クラウディア・カルディナーレ

久しぶりにバート・ランカスターにお目にかかりました。
BSで古い映画やってくれるおかげです。
「男」が男だった時代の映画だというとおかしいでしょうか?
バート・ランカスターのシシリー島の公爵は「男」としか言えないんですもの。
現在の男女共同参画時代では許されない男ですよ。
でも、バート・ランカスターの堂々たる体躯とあの髭(似合っていますよね?)ですからね、この映画の中で彼が演じていたのは間違いなく「壮大な男」でした。
イタリアが統一される前夜くらいのイタリア、シシリー島が舞台ですから、185、60年頃?の物語です。
まず何より背景がいいです。
公爵の屋敷、舞踏会が催される特権階級の豪奢な屋敷の前に広がるのは荒れた貧しいシシリーの山岳と村落です。
こんな村々の貧しい人々をずーっと見下ろして特権を行使し続けてきた男の意識ってどんなものなんでしょう?
本当の所想像も付きませんが、公爵を演じているバート・ランカスターを見ていると分かってくるような気がします。
尊大で、磨き抜かれていて、自由奔放、欲望を抑えようともしない。
この公爵自身は生命力に溢れた生身のそれこそ生々しい男なのに、個人としてよりも彼の家柄の疲弊がここに来て時代の波におぼれかかっているという雰囲気を見せていました。
それは甥の「時代に見事に調子よく乗っていくという選択」の背中は押してやるけれども、自分はその意志も意欲もエネルギーもないという姿勢に現れているのですが。
若々しい細身のアラン・ドロンの軽やかで衝動的に見える行動力と対照して、二つの時代が浮き彫りになってきます。
アラン・ドロンが演じるタンクレディという青年とその婚約者を演じるクラウディア・カルディナーレの哄笑が暗示的で、時代に浮かび上がっていくものと、飲み込まれていくものとを見せ付けるようでしたけれども、バート・ランカスターの公爵はそれを見届けることに奇妙な楽しみを見出しているように思えて、古い時代の凋落はそれでも一筋縄ではいかないことも教えてくれるようでした。
幾時代も乗り越えて磨き続けられてきたものは、その輝きを失う時がきても、滅びる時にはまたそれ相応の残りの輝きを見せるということでしょうか?
それにしてもタンクレディとその婚約者、その父はちゃんと上手く時代を手に掴み取れたのでしょうか?知りたいです。
この公爵の妻に生まれていたら、あんな素晴らしいシャトーに住めて、あんな素晴らしいドレスを着て、たっぷりのご馳走と舞踏会と社交に明け暮れたとしても、生まれ変わったら今度は男になりたいと思うんだろうな・・・なんてつまらない事を考えちゃいました。
たとえ斜陽の家の当主だとしても・・・?
ちなみに「山猫」というのはバート・ランカスターが演じたサリーナ公爵家の紋章です。