忘れられない映画もあるし、様々な思い出と離れ難く結びついている映画もあるし、不意に意識下から浮かび上がって色々な事を考えさせる映画もある。
先日流しで洗い物をしていて、ふと手に小さな水の泡がいっぱい付いているのに気が付いた時、不意に甦ってきた映画がある。
その映画は私にとって忘れられない映画の一つ、印象の強かった映画の一つなのだが、その夜私はすっかり忘れていた事を思い出したのだ。
「なんであの映画がこんなにも心に残ったのか」という理由を。

映画はソ連の「ハムレット」1964年。

私は高校生。その時にただ1度見たきりの映画だ。
監督はグレゴリー・コージンツェフ
ハムレットはインノケンティ・スモクトウノフスキー
親友と二人で見に行った。
導入部で私はすっかり心を奪われた。
岸壁の上に立ったデンマークの城(撮影現場がそうだったとは思わないが、物語ではデンマークの城のはずだ)、その足元に波が押し寄せる。
岩にぶつかり飛沫となって飛び散る。
そのあと無数の泡が渦巻きながら波が引く。
その飛沫が永遠に続くのかと思えるくらい延々と続いていたようだ。
波が寄せてぶつかり飛び散ってしぶきが巻き上がる、波が引いて泡を残し、また波が寄せる、そして激しく飛び散る飛沫、そしてまた波が・・・
私は息を飲んでその飛び散る飛沫、残る泡の美しさに見入る。
オフェーリアを演じた女優の顔も、ハムレットのインノケンティの顔ももう覚えていないのに、その泡の様と友人が途中ただ一言ぼんやりと「なんて美しい足!」とつぶやいたことだけは今も忘れていない。
勿論オフェーリアではなくハムレットの足だ。

映画が終った後、私たちは無言で映画館を出て、私は冒頭の美しさを彼女に言いたいと思って口を開きかけた。
彼女は私がまだ何も言わない先に
「駄目!話さないで!何もいわないで、30分。」
私たちはそれっきり何も話さないで30分以上黙ってただ歩いていたと思う。
有楽町だっただろうか?
その間私は今見た波の様を繰り返し繰り返し反芻していたのではないかと思う。
多分「ハムレット」のドラマよりも。
後にも先にもあんなに長く一つの映画の一つの映像を思い続けたことは無い。
彼女はハムレットの足を?
結局彼女とはその後「ハムレット」について一言も話しあわなかった。
今でもたまに会うけれど「ハムレット」の話をそういえばしたこと無いなぁ。
彼女はあの映画の事を覚えているだろうか?
彼女が与えてくれた時間のおかげで私の中にあの「ハムレット」は永遠に住みついた様だ。
余韻の楽しみ方は色々だろうけれども、あの時彼女が言った
「何も言わないで!」は
最高の余韻の楽しみ方だったなぁ。