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監督  ジョン・パトリック・シャンリー
出演  メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ヴィオラ・デイビス

「対決」の映画を続けて二本見ました。
どっちが面白いかと言われれば分かり易い分だけ「ニクソン」のほうでしょうが、良きにつけ悪しきにつけ後味が残るのは「ダウト」の方だろうけれど。
「ニクソン」では結末が叩き付けられますが、「ダウト」は永遠に終りません。
「どっちだろう?どっちだろう?」尻尾を噛もうとしてぐるぐる回る犬になってしまいます。何時まで回ってるんだ?
見てきたと言う友人が「あなたも見てきたら是非話合いたいわ」と言っていましたが・・・何を話し合いたいか分かりました。が、話し合うのは無駄な気がします。
結局ある意味どっちでもいいのだと思います。つまり「フリン神父が果たして?」ということは。
メリルさんのシスター・アロイシアスが膨らましていった疑惑とそれに伴う行動がすべてで、その結果対決する事になる両者の会話が圧巻で魅力的だと言うことに尽きるように感じたからです。
会話の面白さはいたるところにありました。シリアスなのは彼女と黒人の母親との会話。この母親のはっきりとした目的とそのために示す揺るぎ無い一貫した態度に私は感歎させられました。
それと対照的なのがシスター・ジェイムスで、彼女の終始揺れ動き、ときに揺れ過ぎる振幅の大きさに若さ以上の内面的な危うさを感じました。この二人を踏まえた対決はそもそも寄って立つ地そのものが揺らいでいるのですから・・・自分の信念を貫くためには嘘をつき罠にかけ教えに背く強さは頑迷固陋と言われてもそれこそが宗教のような気がしますし。その意味では宗教感の無い私にはそもそものところでの理解は不能と思われました。慈愛と開かれた教会を旗印にする神父には時代を魅了する明るさがあって、それが彼の栄転に繋がったのだとすると・・・やっぱり教会の組織そのものが眉唾に思われて・・・。自分の信じる事を叩きつける会話の迫力に圧倒されるけれど、その信じる土台を信じられなくて、会話もただの不毛に聞こえました。
面白かったのは神父たちの食事時間と修道女たちの食事時間の対比です。
疑惑という物は化け物のように膨れ上がるもの・・・膨れ上がったらもう暴走するしか道は無いこと・・・それだけ知って自分を戒めれば・・・それでいいか?